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【ふるさと探訪】仇討ち曽我兄弟の墓

物部小北側にひっそり上原氏が憐れに思い建立

「元禄赤穂事件(忠臣蔵)」と「鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち)」と並び日本三大仇討ちの一つに数えられる「曽我兄弟の仇討ち」。

建久4(1193)年に源頼朝が行った「富士の巻狩り」の際、曽我祐成・時致の兄弟が父親の仇・工藤祐経を討った事件で、のちに「曽我物語」となって江戸時代には絶大な人気を誇った。

その兄弟の墓と伝わる小さな五輪塔が、兄弟が活躍した地から遠く離れた綾部市物部町にある。

物部町にひっそりとまつられている曽我兄弟の墓とされる五輪塔。

 

物部史誌(平成9年物部公民館発行)の第14章「遺跡と伝記」に次の記述がある。

上原右ヱ門丞景正が、この建久四年の巻狩りの功によって丹波国何鹿郡六万石を与えられ、物部に入部したのがこの事件の直後のことである。上原氏は親戚筋に当たる曽我兄弟を憐れと思い、その冥福を祈るため墓石をこの地に建立したものと伝えられている。兄祐成の墓は荒廃して畑地となり、現存のものは弟時致の墓であるとされている。

 

信濃国(長野県)にルーツがあるという上原氏は、源頼朝の御家人となった景正(成政とも)が物部郷の地頭職に補任され、一族のほとんどを引き連れてはるばる物部にやって来た。のちに物部姓も称している。

 

「分骨まつる」と伝わる

曽我兄弟の墓とされる五輪塔は、物部小学校の校庭北側の台地にひっそりとあり、数種類のものが1カ所に集められたようになっている。土地の所有者によると「見に来られる人はあまりない」という。そばには荒神の祠があるほか、周囲には古墳も点在しており、なんだか厳かな雰囲気の一角に感じた。

 

曽我兄弟の仇討ち
鎌倉幕府の御家人・工藤祐経が所領争いで恨みを持っていた叔父・伊東祐親に2人の刺客を差し向けた。ところが、放たれた矢が祐親の嫡男である河津祐泰に当たり祐泰は死去。その後、祐泰の妻は曽我祐信と再婚したが、息子2人は父の仇を忘れなかった。建久4(1193)年5月、「富士の巻狩り」に参加していた工藤祐経の寝所を2人は急襲。寝ていた祐経を起こして本懐を遂げた。

Vol.9に続きます。

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