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【ふるさと探訪】ライト兄弟から10年後に綾部で初飛行

1万人集まりお祭り騒ぎ

ライト兄弟から10年後の大正3年、野島銀蔵が市内里町の河原で飛行機を操縦した。

近年はドローンが広く使われるようになり、長年、人類の憧れだった大空の飛翔は今、比較的手軽に疑似体験できるようになった。

ところで、綾部の空に初めて飛行機が飛んだのはいつだったのか。実はライト兄弟による世界初飛行からわずか10年ほどあとのこと。日本国内でもかなり早い時期のようで、当日は会場となった吉美(きみ)村・里の河原に1万人を超える何鹿郡民(綾部市民)が押し寄せ、食べ物を売る店も出たりして、お祭り騒ぎだったと伝えられている。

野島銀蔵の飛行機。当日は里の河原に1万人を超える何鹿郡民が集まったという。 (綾部史談会が昭和57年に発行した「ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 綾部」より)

綾部市史(下巻)などの資料によると、綾部での初飛行は大正3(1914)年12月14、15両日。アメリカ帰りの民間飛行家、野島銀蔵がカーチス複葉機を操縦して空を飛んだ。ライト兄弟の初飛行が明治36(1903)年、日野熊蔵と徳川好敏の両大尉による日本初飛行が明治43(1910)年であり、時代はまさに飛行機の黎明期だった。

この時、「バリバリ」と大きな音をたてて飛ぶ飛行機は井倉の上空から郡是の大煙突をスレスレで旋回。わずか数分間の飛行だったが、何鹿郡民は度肝を抜かれたという。この前日は福知山で飛行しており、一度機体を解体して四輪のベタ車(牛にひかせる荷車)で運び、綾部で再度組み立てて操縦。終了後には次の飛行地・舞鶴に向かった。

会場では、「ヒコーキせんべい」を売る店のほか、当時はまだ珍しかったアンパンが「東洋パン」と称して売られたりするなど、大変なにぎわいだったようだ。明治維新から約50年。科学の粋を集めて空を飛ぶ飛行機は、当時の人にとって驚異であったのだろう。「郡民で野島銀蔵の名を知らぬものはいない」とまで言われた大ニュースだった。

現在の里町の河原。手前が白瀬橋、奥が位田橋。右手が里町側になる。

ちなみにこの野島銀蔵。米国飛行クラブが発行する「万国飛行免状」を日本の民間飛行家としては2番目に取得したと言われている。大正3年1月から愛機「隼鷹」号を操り、国内はもとより台湾などでも飛行を繰り返した。羽田飛行場の基礎を作り、「日本のライト兄弟」と呼ばれた玉井清太郎・藤一郎兄弟のうち、弟の藤一郎は野島銀蔵の弟子として飛行技術を学んでいる。

 

Vol.4に続きます。