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【ふるさと探訪】散歩気分で戦国ロマンを 小畑城跡(小畑町)

地元や企業・団体、学生らの手で整備進む

山家城址と上林城址に次いで市内3カ所目の「御城印」が綾部市観光協会によって2021年になって作られるなど、小畑城跡(小畑町松原)の注目度は近年、うなぎ登り。背景には、地元住民らによる「小畑城を守る会」や企業・団体、学生らが力を合わせて整備を進めるなど、地道な努力と熱意の積み重ねがある。

約2㍍のケヤキ板で作られた看板には「小畑城跡」と大書きされている。登山道は看板の左手から続く。

小高い丘陵地にある城跡は登りやすい登山道で山頂まで10分もかからず、ちょっとした散歩気分で戦国ロマンが味わえそうだ。

 

光秀が滅ぼした波々伯部氏の居城

小畑城で威を張ったのは、丹波守護代・内藤氏の重臣だった波々伯部ははかべ氏。もとは藤原姓で丹波国多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市)東部の波々伯部で在地領主となり、室町(南北朝)時代に船井郡に出て、戦国時代の中ごろには何鹿郡にも進出した。小畑城を中心に小西城(小西町)や六反城(鍛治屋町)を配し、猪崎城(福知山市)の塩見氏とも姻戚関係にあったとされる。

山麓にある高源寺の奥が小畑城跡。

70年近くにわたって城主(領主)として君臨したが、支配に突如終わりが訪れる。1579(天正7)年、数万の兵を率いて明智光秀が猪崎城を攻めた。勝ち目なしとみた塩見氏は城に火を放って落ちたが、途中で追手に討たれる。妻は遺児を抱き、実家の小畑城を頼って逃げたものの途中の三坂峠で殺されたという。

この哀話は「三坂女﨟じょろう物語」として伝わっており、追手が血刀を洗ったという「御太刀みたち池」(鍛治屋町)もある。1769(明和6)年には三坂峠の上に供養塔も建てられた。光秀の丹波侵攻で滅ぼされた波々伯部氏はその後、帰農したと伝えられている。

 

曲輪や土塁跡も

城跡には、素人でもそれと分かるほどはっきりと敵を防ぐための曲輪くるわや土塁、堀切の跡が残っている。「守る会」を中心に、2018年からはグンゼのモデルフォレスト(持続可能な森林管理)活動や府立林業大学校(船井郡京丹波町)の実習協力を得て登山道を整備したり、木々の伐採で眺望を良くしたりしてきた。更に昨秋には住友理工の助成金の採択を受けて登山口付近に看板も設置した。

 

山頂付近に城主まつる稲荷神社

看板横からの登山道は、自然木が組まれて階段状になっており登りやすい。山頂付近には城主をまつるとされる祠(稲荷神社)があり、そのすぐ上が頂上の主郭。奥行50m、幅20mほどの広さがあり、春にはツバキやミツバツツジが咲く。450年近く前の戦の喧騒は、今は想像するしかない。

登山道は自然木が階段状に組まれていて歩きやすい。

 

頂上にある主郭は広々としており春には花々が美しく咲く。

 

 

参考文献=綾部市史(上巻)、小畑城跡資料(小畑城を守る会)

 

 

 

 

Vol.11に続きます。