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【ふるさと探訪】天空の上林城跡

中上林なかかんばやしのシンボル復活 再整備で眺望抜群に

地元の努力で登山道の整備が進められて登頂が容易になるとともに、山頂の樹木が伐採されて〝天空の城跡〟とも言うべき素晴らしい眺望を誇る八津合やつあい町の上林かんばやし城跡(城山)。500年近く前に上林の殿様はここから村々を見下ろしていた。

城山の遠景。頂上付近の樹木が伐採されたことで格段に眺望がよくなった。

綾部市史(上巻)などによると、城主の上林氏は元々、清和源氏の血を引く丹波氷上郡の土豪・赤井氏の一族で、足利尊氏に従って功を立てた赤井秀家が何鹿いかるが郡上林庄に住んだことから上林姓を称するようになったという。秀家は室町幕府の被官で、地頭として入部したと思われる。

秀家から9世の孫・氏忠が山城国の宇治に移住。茶業に携わるようになったようだ。
茶園を始めた時期は戦国時代の永正年間(1504~1520)というが、その後も上林氏一族は上林庄内の支配者として数家がとどまり、在地豪族として分立発展していった。

上林城は16世紀前半に最盛期を迎えたと考えられている。天文2(1533)年の光明寺再建奉加帳には有力施主として上林一族11人が名を連ねており、その威勢のほどがうかがわれる。

織田信長の侵攻などによって勢力が衰えたとはいえ、天正8(1580)年の時点ではまだ明智光秀の配下として上林庄に存在していたと見られる。上林氏一族が完全に上林庄を離れたのは豊臣秀吉が大名領国を定めたころだとされている。

ちなみに豊臣の治世が確立する前、天正12(1584)年の時点で既に上林氏は宇治で一番大きな茶園を有し、茶摘み女500人を使用していたというから、日本一の大茶業師になっていたと思われる。更に後年、江戸時代には幕府の御物茶師の頭取として隆盛を極めた。

上林城跡は、自然休養村事業に伴い昭和53年から56年度にかけて発掘調査が行われた。数々の遺構や遺物が出土したが、これによってこの城が高度な築城技術による本格的な居館であったことが分かった。

 

まるで空を飛んでいるような大パノラマ

この時、同時に山頂が公園として整備されたが長らく手入れが行き届かず、荒れた状態になっていた。そこで中上林地域振興協議会では平成23年度から城山の再整備事業に着手。登山道の整備に取り組むとともに頂上部を中心に雑木の伐採を進め、オーナー制度を導入して桜とモミジを植栽して公園化した。

整備された登山道。上林山荘の駐車場付近から車なら、アッという間に山頂まで着く。

山頂から上林街道の方面を眺めると、睦合むつあい町から八津合町のほぼ全域、五津合いつあい町、五泉いいずみ町の辺りまで見渡せる。一方で反対側にある本丸跡からは地元の各集落が手に取るように見える。独立した丘陵だけあって、まるで空を飛んでぐるりと見渡しているようだ。

頂上からの大パノラマ。

Vol.14に続きます。