【ふるさと探訪】綾中廃寺(綾中町)身近に眠る古代遺跡
90年前に「真如院」と刻まれた自然石発掘
今から約90年前の1929(昭和4)年、綾部町綾中(綾中町)で国鉄・舞鶴線の拡張工事をした際、「真如院」と彫刻した自然石が発掘された。古風な書体で、かつてここに建っていた寺院にあったものと考えられている。
伝承では七堂伽藍備えた大寺院
都が藤原京から平城京へ移行する8世紀前後、古代・漢部(あやべ)郷の中心地帯であったと思われるこの地には、七堂伽藍を備えた大寺院があったと伝承されている。綾中廃寺だ。
綾中町は江戸期、中村と呼ばれた。地名から、おそらくそれ以前から古代綾部の中心地だったのではないだろうか。現在、寺院の中心部分と思われる場所をJR舞鶴線が東西に横断。このため寺院の縁辺部と思われる所だけではあるものの1933(昭和8)年以降、数度の実地調査で古代の瓦や礎石などが発見されている。
出土した瓦の文様に「藤原宮式」含む
寺院は郡司クラスの手によるものと考えられている。この郡司クラスが在地の有力豪族か、畿内から来た新興の有力者かは定かでない。ただ、出土した瓦の文様に「藤原宮式」が含まれることや、2017(平成29)年から行われた亀岡市の佐伯遺跡での発掘調査で綾中廃寺と同じ型の瓦が多く出土したことから、調査に当たった府埋蔵文化財調査研究センターも現地説明会で「瓦製作における工人の移動など、綾中廃寺を建てた集団との強い結びつきがあったと思われる」としている。
廃寺趾付近の地名には、堂ノ元を始めとして花ノ木、四ッ堂、庵ノ上といった寺院に関わる字名が今もある。当時、近くには何鹿郡衙(ぐんが=郡役所)があり、由良川も今よりずっと南側を流れていたことから、この一帯は様々な物資が行き交うウオーターフロントとして大いににぎわったのではないだろうか。
「真如院」と彫刻された自然石は現在、JR舞鶴線・第一青野踏切の南西側に安置され、由来を示した案内板が傍らに設置されている。地下に眠る古代遺跡へのロマンは、意外と身近なところにある。
※参考文献:綾部市史、綾部町史、タカラガイの壺
Vol.3に続きます。