【ふるさと探訪】岩根山行者堂(上原町)
「明六一揆」の舞台に
今も春と秋に年2度の大祭
250年近くにわたって殿様や住民らから篤い信仰を受けてきた岩根山行者堂。現在でも毎年春と秋の年2回、大祭を催すなど地域住民たちが大切に守っている。
ところでこの行者堂、「ご一新」で世が揺れた明治初年に山家郷のみならず、何鹿郡全体を揺るがした大事件の舞台になっている。
今から約150年前、明治6年(1873)7月に何鹿郡(=現在の綾部市)内で「明六一揆」と呼ばれる騒動が起こった。同年10月には、世にいう「征韓論政変」が起こっており、世情騒然とした時代だ。直接の原因はその前年、明治新政府が行った徴兵令と学制(義務教育の実施)発布で、全国各地でそれに反対する一揆が相次いでいる。
「市史(下巻)」や「山家史誌」「山家の村々」「綾部町史」などの資料によると、現在の何鹿郡第一区(ほぼ現在の山家地区)では明治6年7月23日、村民らが「稲の虫送り祈願」と称して大原神社(福知山市三和町)に参詣。その後、上原の岩根山行者堂に集結し衆議となった。その数およそ200。
夕方には上原の河原で蜂起。夜までには800人ほどの人が集まり、「裸体での労働黙許」「小学校建造費の各戸拠出の生活困難者への免除」「社倉籾(備蓄米)積み立ての引き延ばし」「徴兵反対」などを叫んだ。
この騒動は翌日夜まで続いて収まったが、その後、日を置かずして西八田や東八田、中筋、物部、豊里、吉美などで次々と数百人単位で人が集まり、同じような要求を行った。この騒ぎは28日まで続き、府知事は事態を憂慮。軍隊の派遣を手配したことから、大阪鎮台からの2小隊(180人)は28日早朝に発進し、園部まで来たという。
一揆の参加者は合わせて2千人とも言われ、指導者とされた22人が捕縛されて京都裁判所送りとなり、後日には追加で11人が送られている。首謀者に懲役100日、従った者には懲役90日の刑が科せられ(2、3年入獄され2人が獄死との記述や苛烈な拷問があったとの話も)、この時期としては府内で唯一勃発した「何鹿郡一揆」は府内全体を震撼させて収束した。
行者堂は安永6(1777)年、山家藩7代藩主の谷衛秀公が建立。天明元(1781)年に火災で堂宇が焼失したが、本尊や宝物は持ち出されて被害を免れたため、その後すぐに再建された。明治39年にお堂は瓦葺きに改築され、昭和33年には屋根と本尊の厨子を改修。平成19年にお堂から80㍍ほど奥まった所にある「裏行場」への参道を整備し、21年には本尊など2体の木像を修復するなど、今でも住民らに守り継がれている。
登山道は標高300㍍の山頂まで1.1㌔
行者堂のある山頂は標高300㍍近くで、つづら折りの登山道は1.1㌔に及ぶが、住民らによって手入れされた道は登りやすい。秋風に吹かれながら約40分間、山道を登って先人の思いにふれてみてはどうだろうか。
Vol.8に続きます。