【ふるさと探訪】100年前の綾部町
人口爆発の時代
約10年で1万人に倍増
貞明皇后の行啓で近代化加速
100年前の綾部町は、人口が爆発的に増えていた時代だった。明治の末に5千人余りだった綾部町の人口は、わずか10年ほどで倍増し、大正9年に1万人を突破。何鹿郡全体では5万人に迫る勢いとなる。大正天皇の后・貞明皇后が綾部を行啓したのはそんな時期、今から100年前の大正6年(1917)だった。
当時の社会情勢を、綾部町史を基に年ごとに追ってみると…。
大正3年=綾部駅の発展とともに停車場街道(今の天神町)の改修の必要が生じ、この年から2年計画で工事に着手。当時の天神馬場は一面の桑畑や茶園であった。
大正4年=下水道工事が着工。大正天皇が即位され、綾部町からは栗が献上された。
大正5年=小学校増築のほか、上町から上野町に通じる裏門道路の改修など、土木工事が多く行われた。
そして大正6年。行啓が綾部町の近代化を加速させたことは間違いない。11月16日、貞明皇后は上野町の蚕業試験場と青野町の郡是製糸を視察になったが、それまでに皇后を迎えるための様々な準備がなされた。
郡役所前の田町の大手坂を切り下げたのをはじめ、屈曲していた北西町から郡是に至る道路を改修。行啓の道筋である広小路、西新町、北西町通りの下水には、急造で鉄筋コンクリートのふたをした。
当日、汽車で綾部駅に到着した貞明皇后は、皇后旗を掲げた騎馬の近衛将校の先導で駅から蚕業試験場へ向かい、その後、郡是の工場を視察された。道中、沿路には郡内各種団体や一般町民はもとより、天田・加佐・氷上の各郡の学校の生徒代表に至るまで1万4千人の奉迎の列ができたという。
このころ、綾部実業協会によって水無月祭、天神祭、氏神祭、蛭市、年の市などの諸行事が華々しく取り上げられ、商工業発展に寄与した。大正7年は全国的な米価暴騰が起こったが、綾部町では各区長や有志者が協議し、寄付金で費用をまかなって中産階級以下の人たちの救済措置が取られた。
製糸業の発展と、大本の著しい進展によって流入人口が急増。市街地はますます膨張していった。町人口が1万人を超えた大正9年、本町通を直線に西へ貫く構想が発議され、町会で貫通工事が議決される。
ところが大正10年。綾部町の発展を支えた原動力の一つ、大本に当局が介入した。第1次大本弾圧である。これは町全体にも大きな打撃を与えることになったが、人口はその後も昭和になっても着実に伸びていった。
1枚目の白黒写真の地点
Vol.2に続きます。